top of page
75周年記念紙_ページ_06_画像_0001.jpg

History of Maruya

創業者 宮尾邦男
平成元年5月 没
大正10年頃、祖父と

人生に厄年、厄晴れ、還暦、古稀、喜寿、米寿と段々の節がある如く、人の営む企業にも年期的は反省と初心忘るべからずの決意の時があって然るべしと思います。まるやにとって今日がその日です。小社まるやも戦後すぐの昭和二十二年に呱々の声をあげ、今年で満三十年の周期を迎えることが出来ました。これもひとえに仕入先、お得意先、従業員各位のおかげと深く肝に銘じて居ります。この三十年間に戦後の混乱、世相の変遷、経済界の好不況をこの身を以って体験して参り御覧の通りの小社ながら三十才にして「起つ」べく辰の年を迎えました。
三十年と云う峠に立ち、来し方、行く先を想い、全くずぶの素人の私達夫婦が商売の一年生として踏み出してからこの年月、私なりに身に付けた教訓と云うか信条と云うか、その足取りの幾つかを極めてありふれた稚拙な経過ではありますが、まるやを育てていただいた皆々様への「感謝の報告」と致します。
その上今後共の倍旧の御鞭撻が、後につづきます若い者達への勉励の鞭とさせていただけますならば幸いこれに過ぎるものではありません。

企業にも初心忘るべからずの決意があって然るべし

復興の足音に耳をすませて
がむしゃらに働き続けた

戦後の混乱期を駆け抜けた
創業者夫婦の物語

昭和14年、結婚

創業者 宮尾邦男

先ず私の前歴(台湾生まれの台湾育ち)を話しますと、昭和八年に台北帝大の農科系の専門部を卒業後、台湾銀行(鑑定課)に奉職。終戦後の昭和二十二年正月に帰国し、熊本市に定住しました。

台湾で換金商品の買い集めを行い、幸いに銀行内本支店間の情報により、母国日本で手に入らない生活用品やら換金しやすい物資として砂糖、モニサント(サッカリン)、ライターの石、布生地等を家財道具となにもかも売り払って買いあさり引揚荷物に分散して持ち帰りました。

渇望された砂糖を均一分配で売り捌き多くの人に遭う機会を作りました。
家族五人で、荷物二十梱に砂糖五斤宛を分けて入れ百斤持ち帰りました。高値でも一括買入れを断って一人一~二斤とし一人でも多くの人から私にとって五里霧中の熊本の話を真剣に聴きました。
○所謂筍うり食いをせず僅かでも出来た資金には子を生ませました。
○更正した衣料品は儲かるが回転が鈍かった。
分解して持ち帰ったミシンを組立てて古物商の認可を取り、妻はもんぺや古着をほどいてワンピースやオーバー等に更正、委託販売に出すと二~三倍の高値に売れて喜びましたが売れるまでには一~二ヵ月を要して足が遅く回転は鈍かったです。                            

昭和47年、還暦
昭和18年、召集時

ずぶの素人夫婦が、「一商人」として必死に生きた

三十年前、社長の名前は骨川筋衛門でありヤカンさんであった。ある日突然彼は骨と筋の身体をなお細くし、青白い顔を更に青白くして帰って来た。話を聞いてみると、商品の篭抜けサギに出会ったのである。身心共に疲れ果て、さし込む痛みを柔らげるためか、胃の上に湯の入ったヤカンを乗せてコンコンと眠る顔を眺めて、私は決心したのである。戦場でグラマンの機銃掃射にも命を失なわなかったものを死なせてたまるか!!
私も一緒に働こう!と・・・。

当時私達は台湾より引上げた直後であり、台湾育ちの私にとって、植民地時代の習慣から抜け切れず、内地で日本人が労働使役に従事している事にさえ不思議に思った世間知らずの女性であった。というのは外地に於いてはいわゆる労働者と呼ばれる人達は全て現地人だったからである。いわんや女性が労働をするなんて事は外地では全く考えられなかった。

女性が労働するなんて考えられなかった

戦場でも命を失わなかったものを
死なせてたまるか!
私も一緒に働こう!と…。

昭和51年営業部一同
昭和41年3月、20周年店舗移転落成記念(田崎市場前)
img_history03_03.png
創業者妻 宮尾恵子
(平成12年 没)

(昭和五十一年三月) 創業者妻 宮尾恵子

引揚後は台湾銀行に在籍していたせいか戦時中とはいえそんなに不自由な生活はしていなかった。いわゆる特権階級とでも言えそうな生活をしていたのである。

そして敗戦、追いたてられる様に内地送還そのショックと引揚げボケしていた私がヤカンを乗せ青白い顔で寝ている姿を見て一大決心をしたのである。それ以後はガムシャラに働きに働き、一日が三十時間あったらと思う位であった。商売に「掛け引き」があるのも知らない位素人であったが、今振り返ってみてもここまでやってこられたのが不思議な気がする。コツコツとそれこそコツコツと今日迄築き上げてきた。実感としてはそういうより他にない故に三十年一日の如くお取引願えたと思う。お得意様もさる事ながら社員の一人一人もよく力を尽してくれたものである。私は一人二人とふえるたびに又養子が増えたと自分の心の中の戸籍簿にはたくさんの名前が記入され、その養子達にまるや商事株式会社を大きな財産として残したい気持で一杯である。

創業者宮尾邦男長男としてまるや商事㈱入社以来、半世紀が経過しました。三十三才で二代目社長に就任し、代表取締役としての期間は二十九年間、平成十八年六月非常勤相談役に退いて既に十二年になります。在職中は、各方面から多大なるご支援ご鞭撻ご厚情を賜り、心より御礼申し上げます。最近は穏やかな環境で毎日を過ごしております。今年二〇一八年十月に七十四歳(一九四四年生)を迎えようとしている今、まるや商事㈱の現在から過去を振り返り、今後を考える良い機会を得ました。創業者父邦男から大学進学の為上京際して、『人生に於ける重大事とは今日只今の事なり』との人生訓を託され、私は今もこの言葉を基本的な生活信条としてこれからも生きて行くつもりです。

昭和二十二年二月二十二日、宮尾商店発足からの七十一年間、まるや商事(株)全ての歴史を目視し、体験してきたのは今やこの世に私だけしか存在しません。台湾から熊本へ引揚げ後、粗末な引揚者住宅の片隅でまるやが産声をあげました。私がまるやに入社したのは昭和45年4月ですが、私自身は戦後の混迷混乱期の中で、物心つく幼少の頃からまるやの中で育ち、成長しました。事業拡大による増築やビル移転を繰り返す過程で、少年期は商品倉庫や事務所兼自宅が私の生活の場であり、遊び場でもありました。

過去から現在へ そして未来へ

仕入先様お得意先様そして
従業員各位の「おかげさま」の
一言に尽きます。

父は平成元年に母は平成十二年に旅立ちました。復興期から高度成長の時代をコツコツと地道に、そしてきっちりと乗り超えていった父母の姿や言葉をしっかり覚えております。
そして多くのお得意先様、仕入先様、従業員の方々の鮮明な記憶が、数知れずよみがえります。
創業者父の発案による『おかげ三訓』を社是としながら、家業たる菓子卸業を三代目へ継承出来たのは奇跡に近いものを感じます。まさに『おかげさま』に尽きると感謝感激せずにはおられません。

創業当初の生き残りの厳しさと、二代目の事業継承の難しさを同列で比較する事はできません。しかしどちらも運命的な『課題』を、周りの『支え』と、自身の『決断』をどう絡み合わせたかで、まるやサバイバルの歴史が刻まれていったのではないでしょうか?タイミングが僅かにずれた場合、まるやの存続や盛衰に大きな影響を与えたはずです。常に変化する経営環境にどう対応するか?短中長期で戦略的判断は異なるが、基本的な経営理念は不変でなければなりません。将来の的確な予測が難しい中で、浮遊するヒト、モノ、カネをどう組み合わせるか?不安定な現状に着実なリーダーシップを発揮するのがトップです。

VIVA MARUYA!!

75周年記念紙_ページ_07_画像_0001.jpg

平成三十年六月 まるや商事㈱ 相談役 宮尾邦彦 拝

昭和五十六年、東京(株)サンエス(現:三菱食品)との業務提携関係を決断しました。この機会を逃していたら、間違いなくまるやは存続しなかったでしょう。地方菓子卸業の継続に重大で、最大のターンニングポイントであったと確信します。次世代へまるや商事㈱の継承については、全て現社長の裁量に掛かっています。次世代への経営環境がどう変遷するのか、今の私には全く想定不能です。まるや商事㈱創業百年に向けて何が必要なのか?過去の歴史を見つめ、未知との遭遇を想定し覚悟しなが?ら、現在を考えてもらいたい。現実現場の中に全ての解答がある筈です。繊細かつ大胆に、そして勇敢にチャレンジすれば必ず道は拓けると確信します。​

相談役 宮尾邦彦
○□△
 75周年記念誌|デジタルブック 

2022年2月22日。

​まるや商事は創業75周年を迎えました。

​まるやの過去、現在、未来をご覧ください。

bottom of page